my own datebase

だらだらと色々書いていこうと。ブログです

近況

2015年になってからのはじめてのブログ更新です。

だいぶ遅くはなりますが改めて、あけましておめでとうございます。

今年の目標を去年の年末に色々と考えてみました。自分にはたくさんの課題があり、次から次へと目標が浮かびました。そのなかには、あまりに大きすぎて1年では達成することが不可能なものもありました。そこで、大きな目標をチャート式にして小さな目標に分割することにしました。

 

目標:<体力をつける。>

この目標が一番最初にでてきて、なおかつ今の自分にとって大事な目標です。体力には、肉体的なものと精神的なものも含まれています。僕は何をするにしてもすぐに疲れてしまいます。もう少しがんばれば出来ることをあきらめてしまう。この状態をどうにかするために、この目標をたてました。体力がつけば、何らしかあきらめずに小さなことでもやりきることができると思ったからです。

<体力をつける>と目標をたてたものの、これでは、抽象的で漠然としています。なので、肉体的には、歩くことを増やす、毎日ストレッチをする。そして、ある程度慣れてきたらランニングをする、に分けてみました。

精神的には、いやな過去の出来事によって起こる負の感情の習慣を良い方向にアップデートをする。認知心理行動療法みたいなものを自分で実践してみる。ただこれは時間がかかるし、なかなか難しい。精神的なことはそう簡単にいかない。ゆっくりやっていこうと思います。

 

これが2015年の目標です。この記事を書いたのは、ブログに書いておけばもしかして自分がだらけていた時、自分のブログを読み返して初心にかえるかもしれないというもくろみもあります。2015年がみんなが良い年だったと思えることを願いつつ、おひらきにしたいと思います。

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2014年を振り返りつつ

2014年ももうすぐ終わり、2015年が始まります。2014年は、僕にとって、ターニングポイントだったと感じでいます。
今年は、「行動」の一単語につきる年でした。

色々なことに行動してきました。
ずいぶん前にアカウント登録して、ほったらかしていたTwitterを再開、ブログの開設、ラジオへの投稿、ダイエットのための運動、などなど。

実際は、行動をしていく中で、失敗をしたり、焦りすぎて体調を崩したりの繰り返しで全然ダメダメなのです。経験値が足りてない現状です。

ただ、その失敗もなんだか、思っていたよりも痛くない。もちろん失敗すると充分に痛いのですが。

<行動をする>ーその行為をするには、自分の意思が内在している。その意思が確固たるものであり、自分自身が選択したという実感があれば、失敗して後悔しながらもなんとか前に進める。そんな感覚を漠然と感じています。

この感覚が失敗の痛みを少し軽くしているような気がする。

これは、ただもう、僕の主観に過ぎないのでなかなか、うまく書けないのが本当にもうしわけないです。

話しは、急に変わりますが、(角度でいうと180°ぐらい)ブログのタイトルのdatebaseのスペルが間違っていて、正しくは、databaseです。恥ずかしいですが、これもご愛嬌だと思っていただければ、幸いです。では。


混乱からの脱出

前の記事の続きになります。
前の記事を読み返して、自分は少し混乱していたのだと感じた。
同情という言葉のマイナスな部分に囚われていた。

同情は、相手が苦しんでいる姿を見て、その辛さを自分自身が感じる。感情の同一化である。これは相手が苦しんでいる状態が前提条件なので、感情が同一化する場合は苦しさを自分自身が感じる。マイナスものを受け止める。そこに何かしら優越的なものを同情という言葉に感じ、飲み込まれてしまった。

共感することは、相手のマイナスなものに同一化することばかりではない。相手が嬉しい時、その喜びが自分のものみたいに嬉しい。また、同じ作品で同じところで笑うとなんだか嬉しい。(嬉しいという表現ばかりで申し訳ない)
ポジティブなものにも同一化する。
そこには、自分に相手と同じところ、同じ目線が介在していている。それに僕はやっと気付いた。

共感するとは、相手の悲しいことも嬉しいことも、自分の中の同じところと同じ目線を感じて想起することだ。

そこには、上からの目線もなければ、相手の痛みを奪うことで相手の成長を阻害するという思いというおこがましいものもまったくない。

そのことにやっと気付いた。他の人には当たり前なのかもしれないと思うと恥ずかけれど、気付けてよかったと思う。



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自分への疑問

前の記事で、自分の共感性の高さを書いたのですが、書き終わった後にふと疑問を感じました。

それは、大まかに2つあります。

①自分が共感と書いたものが本当に、真の意味で共感と呼べるか?という疑問。
②自分の共感が相手に背負うべき痛みや心の葛藤を奪っているのではないか?という疑問。


具体的に。
①に対しては、ただ自分が相手に感情移入して、上から目線の同情をしているだけ、ただそれだけ。それは自分が相手に優越感を得ているだけかもしれない。
②相手に共感すし、相対することによって、相手は少し楽になるかもしれない。しかし、自分が共感したことが、相手にとって乗り越えることで成長するかもしれない、痛みや葛藤だったら、相手の成長を阻害するのではないか。

この様に2つの疑問が出てきました。これに対しての解決はしばらくかかりそうです。

ゆっくりやっていこうかと考えています。

話は変わりますが、文を書いていくと最後のほうが、いい加減になる。-思考の出発点を飛び出し、文章というグライダーで飛んでいるが、着地するとなると途端にグライダーが制御できなくなり、不時着する-
この問題もどうにかしたいです。

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共感について

ここ数ヶ月、自分自身について色々と考えていました。 数々の課題や問題が浮かびました。その中での一番の問題ー自分自身の根幹に関わるーに直面しました。それは、自分が他の人よりも共感性があまりにも高すぎるということです。

共感をwikipediaで調べたところ、"他者と喜怒哀楽の感情を共有することを指す。もしくはその感情のこと。"とのことです。共感は人間が生きていくうえで大切なものだと僕は思います。他の人がアニメで同じ場面で笑ったりするとなんだか嬉しさを感じたりします。ただし、共感性も高すぎると色々な問題がでてきます。

具体的に言うと、たまたま祖母がつけていたテレビで、スケートの羽生結弦選手が練習中に他の選手とぶつかったところを見たのですが、その時、ぶつかった衝撃と硬い氷のリンクにぶつかった衝撃で、血が頭から流れ落ち、少し痙攣していて、目もどこか焦点があっていない。そして、なかなか立ち上がることができない。その姿を見て、僕は心臓がドキドキして、昔に、交通事故にあって、感覚した痛みを思い出し、堪らない気持ちになったのです。

この出来事が、「これはちょっと変だぞ。ちょっとどころではない。異常だ」と感じたきっかけでもあります。

昔、僕がカウンセラーになりたくて、大学の心理学系の学科に通っていた時に、ゼミの飲み会の帰りに、先生と乗る電車が一緒で二人きりになった時に、先生が「あなたは、カウンセラーに向いていない。」と言われました。その時は、正直ムカつきました。でも、今では先生が言った言葉の意味がわかりました。おそらく、僕がカウンセラーになったとしても、相談者の悩みに共感しすぎて、その悩みや苦しみに飲み込まれ、僕自身が壊れてしまうと心配してくれたのだと思います。

そのことに気付いた現在、僕は共感のコントロールを上手く調整しようと心掛けています。イメージとしては、音楽プレーヤーのボリュームのつまみを回しす感じです。共感したいと感じたら大の方につまみを回し、ちょっと無理だと感じたら小さい方につまみを回す。そんな感じです。

長々と書いてしまいました。読んで頂きありがとうございました。

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介護

こんばんは。
昨日のブログは目も当てられないくらい恥ずかしい文章を書いてしまいました。
削除したい気持ちがありますが、未来の自分のために残しておこうと思います。

さて、この記事のタイトルである介護について書きたいと思います。

僕は、今現在、祖母の介護をしています。祖母は87歳で要介護認定の4級で、なんとか自力で歩くことは出来ますが、着替えたり、食事、お風呂の入浴、買い物は介助が必要な状態です。最近は認知面も衰えきました。
介助には体力や精神力を使います。例えば、立ってる祖母に車椅子を用意して体を支えながら、座らせる。食事の時は喉が詰まらないように食べものを細かく刻み、ゆっくりスプーンで口に入れるなどです。
後、あまり立たないので足の血液の循環が悪いのでマッサージしています。

このように介護をしていると自分の時間がなかなか持てないので辛さを感じることがあります。

でも、家族であり僕のことを可愛がってくれた祖母には真摯に対応したい気持ちがあります

とりあえず今は大丈夫。なんとかやってます。
介護のことは僕にとって書かなけれいけないと思い書きました。では、またの日を。
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進歩

こんばんは。ご無沙汰です。

この数ヶ月に色々な事がありました。

例えば、Twitterでトンチンカンな事を呟いたり、フォロワーさんとネット上だけれども、少し会話をしたり。他にもありますが、個人的な事なので伏せておきます。というわけで、色々な経験を積みました。

少しずつですが自分の成長を感じています。

話が変わりますが、僕がどうして重い腰を上げて行動することを決意したきっかけになった事を書きたいと思います。それは抽象的にいうと、物語と音楽と言葉です。具体的には、伊藤計劃虐殺器官、コラム マッキャンの世界を回せ、ベイビーレイズです。

まずは、伊藤計劃虐殺器官のことを書きたいと思います。2015年に映画化すると知った僕は、軽い気持ちで読んでみようと思い、文庫を買って読み始めました。読み始めていくうちにどんどん作品にのめり込んでいきました。この作品は色々なカジェトがたくさん綴られており、しかも、そのカジェトそれぞれが一級品で、何度読み返しても新たな発見があり、僕の中で一番の小説になりました。しかも、伊藤計劃は2009年に亡くなっていたこと。僕と同じ年齢くらいこれを書いていたことに二重の衝撃を受けました。それからというもの、今の世界の現状を伊藤計劃はどう思うのだろうと思うようになりました。この思いは徐々に自分に対してのことに及びました。この事が僕の動き出したきっかけの一つです。

今日はここまでにします。眠くなってしまいました。またの日を。おやすみなさい。

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